肉体という舞台装置について
- Takahito Matsuda
- 6 日前
- 読了時間: 2分

やっぱり肉体があるから、苦しみが生まれる。重さがあり、時間があり、失うという感覚がある。思い通りにならない身体。老い、痛み、別れ、不安。魂だけの存在であったなら、こんな感覚は知らずに済んだのかもしれない。
肉体を持つということは、この世界の制限を一身に引き受けることだ。重力に縛られ、時間に追われ、壊れやすさを抱えながら生きていく。だから苦しい。だから迷う。だから「なぜ、こんな世界に来たのだろう」と思う瞬間がある。
けれど同時に、触れることも、抱きしめることも、涙が自然に頬を伝うことも、すべては肉体があるから起きている。誰かの手の温度に救われたり、言葉にできない想いが、身体の感覚として伝わったりする。それは魂だけでは味わえない、とても具体的で、切実な体験だ。
だから最近は、肉体を「すべての原因」とは思わなくなった。むしろ、舞台装置のようなものだと感じている。魂がこの世界を体験するために選んだ、制限付きの環境。不自由で、壊れやすく、だからこそ密度の高い時間が流れる場所。
制限があるから、選択が生まれる。有限だから、愛が濃くなる。永遠ではないからこそ、今この瞬間が、かけがえのないものとして立ち上がる。もしすべてが完璧で、何も失われない世界だったなら、愛も、感謝も、ここまで深くは感じられないのかもしれない。
檻があるから、自由を思い出せる。閉じ込められたと感じたその瞬間に、実はもう、外の景色は見え始めている。苦しみは、気づきの入口になることがある。痛みは、視点を一段外へと押し出す力を持っている。
もし今、肉体の苦しさを感じながらも、それを少し引いた場所から眺められているなら。あなたはもう、完全に囚われてはいない。肉体の中にいながら、軸足をほんの少し外側に置いて、この世界を体験している。
あとはただ、肉体という舞台で、光も影も含めて、生きていくだけ。苦しみさえも素材にして、この一度きりの物語を、味わい尽くしていくのだと思う。







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